「いただきます」
七海はたしかに、自分が龍に食べられる『ガブリ』という音を聞いた気がした。
「いやーーっ!!!」
七海は恐怖で目をつぶって叫び声を上げた。
――私は、この感覚を知っている気がする。自分の体が飲み込まれる。普通に考えれば、死ぬ。
だけど、この感覚は何だろうか。
私の人生は終わるのか。
これから始まるのは第二の人生か、それとも新しい神話だろうか――
「…あれ?」
おそるおそる目を開ける。どうやら自分は食い殺されてはいないようだ。
「なんじゃ、大げさじゃの」
おそるおそる目を開けて前を見ると、たった今自分にかぶりついたはずの龍は、凛太郎の姿に戻っている。ただ相変わらず口元からは牙が突き出ており、眼は緑色だ。
「安心せい。おぬしの肉体を傷つけてはおらん」
七海が周りを見ると、レストラン「カルメン」の客たちが、先ほどの七海の叫び声を聞いて一斉にこちらを見ている。七海は恥ずかしさで顔を赤らめる。
「どうかなさいましたか?」
七海の叫び声を聞きつけて、ポニーテールの女子店員が心配して声をかけてきた。アルバイトの子だろうか、女子高生くらいの年齢に見える。
「いえ、何でもないです…すみません!」
七海はさらに真っ赤になって冷や汗をかく。
「なにするの!どういうつもりよ!」
「なかなかうまかったぞ。これでもう、おぬしの体は心配いらん。」
「はあ…?」
「触ってみい」
「どこをよ?」
「何を言うか。|乳《ちち》に決まっておろうが」
「乳って…!」
「いいから、触ってみよ」
凛太郎が真剣な眼差しを向ける。
七海はおそるおそる、右の乳頭近く、しこりがあった場所を触る。
「あれ…消えてる?」
「言うたじゃろ。心配いらんと」
♦
数日後、新宿総合病院。七海は緊張しながら、自分の担当医である|乘本洋幸《のりもと ひろゆき》と対面している。
「不思議ですね…全く異常ありません」
「…!」
「ちょっと、触診失礼します。
…やはり消えていますね。おかしいなあ…。前回触診したときは確かにしこりがあったのに。
念のため、1週間後、もう一度検査してみましょうか」
「…はい…分かりました」
病院からの帰り道、新宿の繁華街の屋外大画面には、国会中継が映し出されていた。与党人気の原動力ともいえる美人女性議員が、朗々と答弁をしているところだった。
♦
ところ変わって、株式会社ギャラクティカ。終業時間間際に、七海が凛太郎のいる営業部のデスク|島《しま》にまで出向いてきた。
「葛原君、もう仕事上がる?このあとちょっといいですか?」
「え、はい…もう少しで上がります」
凛太郎はいつものオドオドした様子である。どうやら九頭龍からいつのまにか凛太郎の人格に戻っているようだ。
「また『カルメン』でいい?」
「は、はい…」
回りの社員が驚いて振り向く。万年営業最下位のクズリンが、会社のアイドル・阿賀川七海に誘われ、「また」カルメンに食事に行くだと…?先輩の|若生《わこう》は「ヒュー」と口笛を吹いた。
30分後。レストラン『カルメン』。七海が凛太郎を問い詰めている。
「胸のしこりが完全に消えてたわ…。どういうこと?」
「そんなことを言われましても、僕には何が何だか… 大体、前回ここで気を失ってからの記憶がないんです。気づいたら自分の家にいました」
「…クズ君、あのとき急に気絶して、目を覚ましたと思ったら『我が名は九頭龍』とか、イタ~イこと言ってたんだけど。で、私の癌を食べたから、もう検査は必要ないとか何とか…」
「うぅーん…」
「ホントに記憶ないの?今までこういうことは一度もなかったの??」
「ありません。ただ、小さいころから夢の中で声が聞こえることがあったんです。いつも間にか聞こえなくなってたんですけど、最近突然、また聞いたんです。『起きよ、戦じゃ』とかって…」
「そう、そんな感じのしゃべり方だったわよ。おじいちゃんみたいな」
「ずっと僕の中に、九頭龍ってのが眠ってたんでしょうか…」
「私に聞かれても困っちゃうよ。…今、九頭龍には変われないの?私の体のことを教えてもらわなきゃ」
「やってみます…」
凛太郎は、目をギュッとつぶってうつむく。
数秒が経過した。凛太郎はうつむいたままである。
「ダメ…かしら?」
凛太郎は突然顔を上げ、「ギン」と目を見開くいた。縦長の瞳に、|金色《こんじき》がかった緑の光彩。龍の目である。
九頭龍に変わった凛太郎は、凄みをきかせた表情でいう。
「何じゃ。儂は人間に呼ばれてほいほい出てくるような安い龍ではないのだぞ。」
七海は全く動じずに九頭龍に詰め寄る。
「九頭龍さんね!私の体をどうしたの?病院の検査で、腫瘍が消えてるって先生が言ってたんだけど!」
「…動じない女じゃな。」
九頭龍は目を点にする。意外とかわいらしい表情もする龍のようだ。
「キャンセルでよい、と凛太郎に言わせたのに。結局検査とやらを受けよったのか。人間が心配性なのは昔から変わらんな。
…簡単なことよ。儂が食った。九頭龍といえば病気直し、これ常識。特に|女子《おなご》の|腫瘍《できもの》は、儂の大好物じゃ」
「…クズさんって、何者なの…?」
「何度も言わすでない。箱根は芦ノ湖の九頭龍大明神様じゃ。知らんのか?」
「知らないわよ… そのクズリューさんってのが、なんで葛原君と二重人格なのよ」
「フフン。二重人格という言葉は正しくはないがの。こやつの前世とちょっとした因縁があってな。こやつが生まれ変わるたびに、儂が守護神としてこやつを守ってやっておる」
「…葛原君、龍神に守られてたの?とてもそうは見えなかったけど…」
「つくづく男を見る目のないヤツじゃの。そんな調子じゃから嫁の貰い手もないのじゃ」
「な…失礼ね!彼氏つくらいないのはちゃんとしたワケがあるんです!」
「そのワケとやらは何じゃ。」
「それは…」
七海は少し言いにくそうに下を向く。
七海は美人である。社内・社外に男性ファンがゴマンといる。言い寄ってくる男も絶えたことがない。この時代、27歳というのは十分に若い年齢であるが、ここまで独身を通し、あまつさえ恋人すらつくる気配がないのは、七海のスペックを考えたときにどう考えてもおかしい、と周囲は常々不思議に感じていた。七海本人もいわゆるコミュ力には自信があり、人望も厚い。男からも女からも良くモテるが、樹液に群がる昆虫のように寄ってくる男を退けるたびに、男子社員たちからの「氷の女王」というあだ名が定着していくこと、そして女子社員たちからも「なぜ男の影がないのか…?」と奇異の目で見られていることには、うすうす感づいていた。また一部の女子社員が「ひょっとして女性の方が好きなのでは…?」と胸を高鳴らせていることには、まったく気づいていなかった。
七海は口を開いた。
「じつは今、お金を貯めなきゃいけないことがあって副業してて…
平日の夜も土日も、個人でデザインの仕事をしてるから、恋愛してる暇なんてないのよ…」
「ほーー。それだけ|根《こん》詰めて働けば、体を壊すのは当然じゃ。癌にもなるわい」
「…」
七海は、ハッと何か思いついたように顔を上げた。
「ねぇ、九頭龍さんって、癌以外の病気も治せるの?」
「?」
(つづく)
炎のような光のような二体の狼のうち、吽形《うんぎょう》だった方は「グルル…」と低いうなり声を上げた。阿形《あぎょう》だったもう一体は「ウオーーーーン!!」と大きく吠えた。空気がびりびりと震える。「クッ…。ガチもんの神獣が二体か。これほどの霊力を隠して石像に化けてやがるとは…」虎柄の服の鬼は棍棒を構えて立ち上がるが…「レミッキ。今日のところは見逃しといてやる。後できっちり追い込みかけるから覚えとけよ」虎柄の服の鬼はそう吐き捨てると、煙のように姿を消した。「アロン、ユマ。もういいわよ。ありがとう。せっかく久しぶりにこの世に顕現(けんげん)したんだから、お散歩する?」シスター志良堂からアロン、ユマと呼ばれた二体の狼型の神獣は、喜んでいるかのようにグルルと鳴きながら体をシスターとレミッキに擦り付けた。「た、助かった…」安心して気が抜けた七海と凛太郎の二人は、魂が抜けたようにぺたん、とその場にへたり込んだ。「なんだか、今日一日で寿命が5年は削られた気がするわ… ちょっと、凛太郎君。そろそろ起きなさいよ。帰りのバスに間に合わなくなるわよ」「それが… ただでさえ長い距離を歩いたうえに、九ちゃんがあんな無茶な戦い方するもんですから、体が限界で… あのー、七海さんにおんぶしてもらうわけにはいかないですよね…?」「アンタねぇ、人をなんだと思って…」「心配いりませんよ。駅まで車でお送りします」 シスター志良堂が助け船を出す。「いいんですか?どうもすみません」「いえいえ。将来ウチの娘がお世話になるかも知れませんから。ね、レミッキ♡」「し、知らないわよ!」 レミッキは真っ赤になって腕組みし、そっぽを向いた。「お望みでしたら、東京までアロンとユマの背中に乗せてお送りすることもできますけど?」「「いえ、遠慮します」」 凛太郎と七海は、シンクロして掌《てのひら》を顔の前で振った。「あ、いっけなーい、忘れてた。車、車検に出してたんだった」今度も凛太郎と七海の二人は、完璧に揃ったタイミングで顔を見合わせ、同時に冷や汗を流した。♦ ♦ ♦「ぎゃあああひぃ~~~~~!!!」凛太郎と七海は二人、電信柱から電信柱へとものすごいスピードで飛びながら、奥秩父から東京に向かうアロン(阿形《あぎょう》の石像だったオスの神獣である)の背中で、振り落とされない
戦いのあと、レミッキが泣き出したのを見ていた七海と梅ケ谷が話している。「神に選ばれて守護《ガード》されるには、いくら偉人の生まれ変わりと言ってもそれ相応の対価が必要です。多くの場合は大病や事故に遭うなど、人生における大きな不運と引き換えに力を得ます。阿賀川さんも間接的に龍神に守られていることになりますが、思い当たる節があるのでは?」「まぁ、そうですね…」七海は少し顔を赤らめつつ、光の病気を何とかしようと奮闘しているときに自分も乳がんになって頭を悩ませていたことを思い出した。「|守護されし者《ガーデッド》の能力は、被《こうむ》った不運の大きさ、言い換えれば捧げた分の幸運の量に比例します。 狙ったところに100%銃弾を命中させる能力だなんて、相当上級の力のはずです。かなり辛い過去があったのでしょう」♦ ♦ ♦「レミッキ」周りから私を呼ぶ声がする。レミッキはフィンランド語で『勿忘草《わすれなぐさ》』という意味だ。なかなか気に入っているが、多分もともとの名前じゃない。…これは、現実か。それとも、夢を見ているのか。ああ、昔の記憶だ。思い出したくもない、昔の記憶…。私は複数の中年の男たちに囲まれている。男たちの荒い息遣い。私の体を玩《もてあそ》んでいるのだ。男たちの舌が、体中をナメクジのように這いまわっている。その舌はいつのまにか、蛇のように先端が二つに分かれたものになっている。「レミッキ」「レミッキ」……ふと見ると、男たちの顔も人間離れしたおぞましいものになっている。蛇のようなトカゲのような、ワニのような… そうだ。「人間と竜のハーフ」と言った表現が一番ピッタリくるか。「じゃあそろそろ…」その顔の一つが、爬虫類の目をギョロギョロさせながら言う。「…君を食べてもいいかな」♦ ♦ ♦「きゃーッ‼」レミッキはベッドから跳ね起きた。冷や汗で体中がびっしょり濡れている。「あらー、起きた?また悪い夢を見たのかしら。大丈夫?」「ママ…」いつの間にか、ちちぶ子ども未来園の中だった。レミッキから「ママ」と呼ばれた志良堂美洸《みひろ》シスターが話を続ける。「こちらのお客様が、レミちゃんをおんぶして運んで下さったのよー。来る途中にたまたま出会ってお話ししてたら、急に気を失ったんですって?」「え、ええ、そうなんです。ははは」いつの間にか九頭龍の
七海と梅ケ谷が見守る中、凛太郎は、上空から襲い来る無数の銃弾に次々と体を貫かれていく。体はひび割れ、ボロボロと崩れていく。ついに顔までが崩れ、粉々になった体から切り離された頭部が地面に落下する。「嘘… そんな、嘘よ…」九頭龍凛太郎の頭がスローモーションでゆっくりと地面に落ちていき、地面に到達して「パリン」と砕け散る、その一瞬前に、七海は凛太郎がニヤッと笑ったような気がした。…真っ暗な闇の中。ここは現世《うつしよ》と同時に存在すれども交わらない霊界か、はたまた九頭龍の精神世界か。紫色の目とたてがみをした巨大な龍が、暗闇の中で凛太郎と同じ声色で話す。「|五ツ陽《いつはる》。おるか?」「へーーい」…その瞬間。現実世界では、七海たちがいる現実世界では、たった今崩れて首が落ちたはずの凛太郎が、いつの間にか無傷でうずくまっている。ただ、その髪の毛は凛太郎の時の焦げ茶色でも、九頭龍の時の濃い紫色でもない。ダークブロンドというのか、アッシュゴールドと言えばいいのか、独特の風合いをした暗めの金髪である。「ま、ここはオレの出番っスよねー」アッシュゴールドの髪の凛太郎がつぶやく。普段の凛太郎とも、いつもの九頭龍凛太郎とも違う、垂れ目でどことなくアンニュイな表情をしている。(フン、いつもいつも眠そうな顔しおって)虚空から、普段の九頭龍の声が聞こえた、気がした。「|五ツ陽《イツハル》さんですか。私も見るのは久しぶりですね」「久しぶりですね、って言われたって…」『五ツ陽』と呼ばれた暗い金色の髪をした凛太郎は、いつもの老人のような口調とは違うしゃべり方でレミッキに話しかけた。「おーい、そこの外人の嬢ちゃん。早いとこ降参しなよ。俺が出てきたから、君に勝ち目はねーっスよ」「何を馬鹿な…」レミッキは内心、驚いていた。先ほど自分のサブマシンガンから放たれた銀の弾丸の嵐により、ボロボロに崩壊したと思ったターゲットが、髪の色を変えて何事もなかったかのように甦《よみがえ》ってきたのだから当然である。が、何とか平静を装いながらガチャッという音を立てて弾倉《マガジン》を新しいものに交換した。「何度でも葬《ほうむ》るだけよ」ドガガガガガガガガ再びの轟音とともに、今度は曲げた右腕で銃身を掲げ、レミッキは銃弾を上空に発射する。その弾たちは、またも空高くから一斉に、バラバラの軌道を
「志良堂《しらどう》レミッキ。日本での歌手としての活動名は、レミですね」「うぎゃー‼」当然一人で茂みに隠れているものと思い込んでいた突然横から梅ケ谷知《さとる》に声を掛けられ、思わず叫び声を上げてしまった。よく見ると、梅ケ谷は両手に木の枝の模型を持っている。茂みの一部に紛れているつもりらしい。(擬態…? この人こんなキャラだったのかしら)「Lemmikki(レミッキ、またはレンミッキ)という名前からおそらくフィンランド生まれ。戸籍上は、キリスト教系の孤児院、ちちぶ子ども未来園の園長・志良堂|美洸《みひろ》の養子ということになっています。高校卒業後、18歳で上京。ネットを中心に歌手活動を開始、今に至るわけですが、まさか裏社会で『死神』と呼ばれるスナイパーの正体が彼女だったとは…」「あ、あの~ 梅ケ谷さん、どうしてここに?秘書業務は大丈夫なので…?」「ご心配なく。今日の分の仕事はとっくに終わらせてありますので。あの龍は放っておくと何をしでかすか分かりませんから、心配で付いてきました」「はあ…」「そんなことより、始まりますよ。九頭龍の久しぶりの戦いが」「…」そう言う梅ケ谷の表情から読み取れたわけでも、声の調子からそう感じられたわけでもない。だが、七海には何となく感じるところがあった。(なんだか嬉しそうね、梅ケ谷さん)♦さて、七海と梅ケ谷の視線の先で。「…もう、遠慮なくいくわよ」レミッキはスナイパーライフルを構え直した。「おう、レミとか言うたの。いざ尋常に…」パァン!九頭龍凛太郎が言い終わる前に、レミッキは銃弾を放つ。 が、それはトカゲのような鱗で覆われ鋭い爪のある形へと一瞬のうちに変貌した、凛太郎の手によって難なくキャッチされてしまった。江島めぐみ狙撃(二撃目)の時と全く同じである。「まーったく、せっかく武士道をわきまえた女子《おなご》じゃと思うとったのに。南蛮にも騎士道精神というのがあるんじゃろが…」言いながら、九頭龍は掴《つか》んだ銃弾をポイッと投げ捨てた。「儂には銃なんぞ効かんぞ。諦《あきら》めて降参せい」「やっぱり、そうよね… こちらも時間があったからね。対策させてもらったわ」ちょうど弾を撃ち終わったレミッキは、ジャキンという音を立てて弾倉《マガジン》を交換すると、ガチャリとハンドルを引いてから再び戻した。パァ
『ちちぶ子ども未来園』は、埼玉県の秩父地方の山間部にあるキリスト教系の孤児院である。シスターの|志良堂美洸《しらどうみひろ》が、たくさんの子供たちと食卓を囲んで、食前のお祈りをしている。「おお、神よ。私たちをいつも見守り、導いて下さることに感謝します。この食事が神のための善を行う力となりますように。アーメン…」|美洸《みひろ》シスターは祈りの言葉を言い終わると、少し間をおいて「パンッ!」と乾いた音を立てて勢いよく合掌をした。「はーい、堅いお祈りは終わり。今日は裏の山でとれたイノシシの焼肉と猪汁《ししじる》よ。みんな、たくさん食べてねー♡」「やったー!!」年齢も性別も違う孤児たちが、一斉に猛烈な勢いで目の前に盛られた食事に飛びつく。キリスト教系の施設には“|清貧《せいひん》”といって、必要以上に贅沢を望まない考え方がある。だがこの『ちちぶ子ども未来園』は、「他の家庭を|羨《うらや》むことがないように」という美洸シスターの思いで、毎回栄養のバランスを考えつつ最大限豪華に、というのが食事の基本方針となっていた。「焦らなくても、お代わりは沢山ありますからねー。それはそうと…美洸シスターは、ふと窓の外に目をやる。「今日はもしかしたら、嬉しい再会があるかも知れない予感がするのよねー♡」♦ ♦ ♦ 光の入院している新宿総合病院を出た九頭龍凛太郎と七海の二人は、13時過ぎに新宿駅発のバスに乗り、2時間以上揺られて秩父にやってきた。見渡す限り山、山、山で、緑が目に|沁《し》みる。普段吸い慣れている新宿の空気とは別物のように美味しい空気だが、それを有難いと感じる体力の余裕が、七海には無くなってきていた。|顎《あご》が上がり、額には大粒の汗がにじんでいる。「ハァー… まったく、どんだけ歩くのよ。降りたところ、ホントに最寄りのバス停?」「いっつもパソコンと睨めっこばかりしておるから体が弱るんじゃ。昔の日本人なら新宿からここまで|徒歩《かち》で来ておるわい」一方の凛太郎は汗一つかいていない。今日は朝から九頭龍の人格だからなのだろうが…「あなた、そのペースだと明日凛太郎君に戻った時に筋肉痛で泣くわよ。 …それはそうと、いつの間に社長のOKもらったの?情報系企業が孤児院買収って聞いたことないわよ」「フン、龍神様のビジネスセンスを嘗めるなよ」そうこうしているうち
某日13時、東京都庁。白いコートに身を包んだ人物が、警護役であろう屈強そうな職員のエスコートを受けて、都庁最深部の知事執務室に通される。フードを|目深《まぶか》に被った顔は、依然としてよく見えない。「時間ピッタリですね… 都庁へようこそ。直接お会いするのは初めてですね」猛追する江島めぐみ候補を振り切り二期目への当選を果たした|尾池百合絵《おいけゆりえ》都知事が、執務室最奥のデスクから形ばかりの歓迎の挨拶をする。「死神さん、とお呼びすればいいのかしら?」書類仕事をつづけながら、目も来訪者の方を向けようとしない。「…」白コートの来訪者は無言のままである。尾池は続ける。「《《先生》》とケイトさんから、成功率100%の腕前だって聞いていたので、安心してお任せしたのですけど。私の聞き間違いだったのかしら」「…」「新宿駅の演説の後でも、いくらでも仕留めるチャンスはあったはずでしょ?あの女が世界の調和にとって邪魔になることは分かっているはず… 組織票で勝てたからよかったものの、とっても肝が冷えましたわ」「…」「だんまりですか。あまりおしゃべりはお好きでないようね。いいわ。どのみち約束は成功報酬のはずです。お支払いするお金はありませんので。お引き取り下さい」『死神』と呼ばれた白コートの人物は、ついに一言も発しないまま執務室を後にした。(ケイトのやつ…)成功報酬だという話は、今日初めて聞いた。♦ ♦ ♦同じ日の正午。「…と、いうわけで、今回は心臓の病気と闘う、同じ孤児院の後輩・|光《ひかる》君との、2回目の動画でした~。またね!…はい、カット!ありがと、光君!」新宿総合病院の|阿賀川光《あかがわひかる》の病室で、18歳くらいの白人の女の子が美しい金髪をなびかせながら、自分で構えたスマホカメラに向かって手を振る。ネットで人気上昇中の歌い手・レミが、光への2回目の見舞いに訪れていたのだ。病室で動画撮影とは怪しからん、との声もあろうが、担当医の|乗本《のりもと》が理解があり、「拡張型心筋症と闘う子どもたちの情報拡散になりますし、光君の気晴らしにもなるでしょうから」とのことで、短時間の動画撮影はOKが出ている。それにしても、光とレミは随分と仲良く話すようになった。恐るべきは光の人たらしの力である。「こっちこそありがとう。えへへ、なんか夢みたいだなー